2014-01-26

Squeeze / Cosi Fan Tutti Frutti


スクイーズのアルバムというと、よく挙げられるのが「East Side Story」(1981年)ですが、個人的には最初の解散・再結成後からの「Cosi Fan Tutti Frutti」('85年)、「Babylon and On」('87年)、「Frank」('89年)辺りの方が好みであります。
以前からあったいかにも英国らしい捻りの利いたセンスに加えて、ソウルミュージックの要素が強まることで、音楽がより懐の深いものになっているように思うのです。そして、そのソウル的な要素を肉体化・消化するのに大きく貢献しているのが新たに加入したベーシスト、キース・ウィルキンソンではなかったかな。

しかし、こう書いてきて何だが、この「Cosi Fan Tutti Frutti」というアルバム、サウンド面ではいささか微妙なところがあって。プロデューサーのロリー・レイサムが原因かもしれないけれど、シンセの多用やドラムの音作りなど、ごてごてしていて、どうしたって時代を感じさせられる。
(モーツァルトとリトル・リチャードを掛け合わせたタイトルが象徴するような)スクイーズの他のアルバムには無いドラマティックなスケール感を実現してはいるのだが、バンドとしての姿が見えにくくなっているのも事実。

その一方で、彼らならではのポップソングはもうなんか、練り込まれ過ぎて凄いところまで到達しているように思う。オープナーの "Big Beng" はそもそも曲のキーがよくわからないし、終止感はどこに行ったのか、という。スモーキー・ロビンソンからのビートルズ、というメロディの変化といい、まさに爛熟の感。
他の曲でもアルバムいちキャッチーな "King George Street" やクリス・ディフォードの唄う "Break My Heart" などは、曲展開のねじれがエライことになっているにもかかわらず自然に聴かせてしまうだから、大したものだ。

決してスクイーズのベストの作品ではないとは思うのだけれど、ファンにとっては重要な一枚ではあることよね。偏愛、ちゅうか。

2014-01-20

Lou Courtney / I'm In Need Of Love


ルー・コートニーというシンガー/ソングライターの1974年、Epicからのアルバム。プロデュースはコートニーとジェリー・ラゴヴォイ。ラゴヴォイというと'60年代のニューヨーク・ディープ・ソウルにおける功労者、という存在なのだけれど、この作品は時代を反映した都会的でメロウなソウルです。

収録されている全曲がコートニー本人によるオリジナルで、これが良いメロディ揃い。転調を多用する作風のようで、それが曲に意外な奥行きをもたらしています。ちょっと展開が読めないものもあって、"Since I First Laid Eyes On You" なんて曲、僕はグレン・ティルブルックを連想しましたよ。
サウンドのほうはスウィートなものもファンキーなものもやり過ぎず、濃過ぎずの加減がちょうどいい塩梅で。その風通しの良さが展開をはらんだメロディを生かすように、うまく作用していますね。特に "I Don't Need Nobody Else" がクールで格好良いミディアムに仕上がっていて、ジョニー・ブリストルをも思わせます。
また、コートニーのボーカルはマーヴィン・ゲイ・フォロワーという趣のもの。本家ほどの強烈な色気こそありませんが、軽快なバックとの相性は申し分なし。

このひとは'60年代半ばから裏方としても活動していたようで、そのせいか、とても丁寧に作られているような印象です。
個性は控えめながら、その分、繰り返し聴くことで魅力が深まっていくような一枚かと。

2014-01-19

アガサ・クリスティー「五匹の子豚」


1942年のエルキュール・ポアロもの長編。16年前に起きた殺人事件を、遺族の要望によって再調査する、というもの。所謂「回想の殺人」のはしりですな。
今作の前にはトミー&タペンスとジェーン・マープルをそれぞれ10年以上のインターバルを経て復活させておりまして、この時期はクリスティの転換期のひとつであったのでしょうか。

タイトルになっている『五匹の子豚』とは、過去に起きた事件の関係者たち五人のことであり、再調査においては容疑者にもなる存在です。
ポアロは彼・彼女らから取材と偽って話を聞き出した上、更にそれぞれから見た事件の回想記を書いてもらう約束を取り付けます。同じ事件についての話が5回繰り返されるのだけれど、これがちっとも単調にならないのですね。関係者たちの意外な人間性が明るみになってくる、この過程が実に読ませるのです。ミステリとしても、それまで言及されていなかった手掛かりが少しずつ出てきて、油断ならない。
また、関係者のうちのひとりは真犯人であり、そうなると当然、彼もしくは彼女の回想記に本当のことは書かれていないわけで。

騙しの仕掛けは相当にシンプルなもので、これを土壇場まで底を見せずに引っ張ってこれるのは物語作りの巧さゆえ、でしょう。たったひとつの手掛かりによって全ての意味が変わってしまう、という趣向も断然好みです。
展開は非常に地味であって、クリスティをある程度読んできた人向きでしょうが、いやいや、おそろしく技巧的に書かれたミステリでありました。

2014-01-05

フラン・オブライエン「第三の警官」


フィリップ・メイザーズ老人を殺したのはぼくなのです――自らの著作を出版する資金欲しさに、腹に一物ありそうな雇人と共謀して金持ちの老人を殺した「ぼく」。事件のほとぼりがさめた時分に、隠してあった金庫を回収に向かったのだが・・・・・・。

出だしこそ倒叙ミステリめいていますが、かつてはポストモダン小説と呼ばれていたような、今ならファンタジーとして受け入れられるであろう作品。もともとは1940年に書かれたそうであって、現代の読者にかかればお話全体の秘密は最初の4、50ページほどで見当がついてしまうかも。
しかし、この作品において筋書きなど大した意味は無いようでもある。奇妙で現実感を欠いた展開はさっぱり脈絡が掴めないし、SFめいた仕掛けも多いのだが唯々ナンセンス。意味が通じてるんだかいないんだか良く分からない会話。語り手の「ぼく」は不条理な運命に翻弄されているにもかかわらず、決してすっとぼけた軽薄さを失わない。

また、「ぼく」が書いている本というのはド・セルビィという名の、ある物理学者の業績を分析したものらしく、物語には頻繁にそのド・セルビィ的な、万物のあり方や認識に関する馬鹿馬鹿しくも奇怪な理論が差し挟まれる。更にそういった箇所には、鹿爪らしい筆致ながら実にデタラメかつ脱線だらけの脚注が付されているのだけれど、それらも「ぼく」自身の手によって書かれているのではないか? と思えてくるのだ。

「あんたはいちごジャムがぎっしり詰まった家だって手に入れられる。どの部屋にも隙間なく詰めこんであるので扉が開かないほどだ」

結論やらテーマのはっきりしたものを好む人には合いそうにありませんが、奇想に溢れ、とても手の込んだ喜劇小説でありました。