2016-11-27

G・K・チェスタトン「詩人と狂人たち」


1929年に発表された連作短編集、その新訳。訳者は筑摩でブラウン神父ものを手がけているひとですね。
この作品は、はたちくらいの頃に一度読んだきりで、キャラクター設定くらいしか覚えていないな。逆立ちするところとか。

副題は "Episodes in the Life of Gabriel Gale"

詩人であり、画家のガブリエル・ゲイルは、狂人たちの心の動きがわかるので、その何気ないように見える行動から、彼らの犯した(あるいは犯そうとしている)事件に気付くことができる。いわば奇妙な論理を扱った探偵なので、その推理の道筋は形而上のものになっています。
あと、リアリティの枠組みがゆるく、ファンタジーや御伽噺に近いようなテイストのものもあるかな。

ある程度パターンを知っていれば、ここに収められた作品のいくつかについて事件の真相を言い当てることは容易かもしれません。しかし、解決のために配置された手掛かりには気付けるかどうか。実際のところ、それらは物証というより物的アナロジーといったほうが適切でしょう。
金魚や海星、窓を伝い落ちる雨粒、赤い花びらに色とりどりのお菓子。「人間の生活の主目的は、物をいまだかつて見たことがないかのように見ることだ」と主張するガブリエル・ゲイルの目を通すと、それらささいな手掛かりが詩的な輝きを帯びて浮かび上がってくる。これがいいのです。チェスタトンの逆説に影響を受けた作品はあっても、こうした情景のセンスにはなかなかお目にかかれないと思う。

作者の信条が強いかたちで出ているところもあって、プロットやトリックだけを追うような読み方では十分には楽しめないかもしれません。まあ、そんな野暮天は放っておけばいいか。
チェスタトンらしい独特の論理とロマンティシズムを堪能できる一冊でありますよ。

2016-11-23

Big Star / Complete Third


ビッグ・スターのサード・アルバム、その拡大版3枚組。デモ、ラフ・ミックス等が盛り込まれ、未発表のものも28トラック収録されています。


ディスク1の前半はギターとボーカルのみによるデモで、これ、異様に音がいいです。内容もしっかりしたもので、後にアルバムに収録されることになる曲の多くが、恐ろしいくらいに美しく、澄み切ったかたちで提示されています。未だデカダンな雰囲気があまりなく、メロディの良さも伝わりやすくて、曲によっては最終形のものよりも好みですね。
その後に、ゆるいセッションのようなものをいくつか挟んで、"Big Black Car" のバンド形式でのデモが入っています。演奏はそれほどかっちりしていないけれど、サイケデリックなギターソロが興味深い。

ディスク1の後半からディスク2の殆どを占めているのがプロデューサーを務めたジム・ディキンソン、及びアーデント・スタジオのオーナーでエンジニアのジョン・フライそれぞれの手によるラフ・ミックス。ただミックスが違うというだけではなく、ボーカルが異なっていたり後にオーバーダブされるパート(特にストリングス)が未だ無かったりと、別ヴァージョンといったほうがよいものも多いです。
ディキンソン版のほうはあちこちでテープの劣化に起因すると思われるノイズがありますが、音質そのものは十分聞けるもの。中でも "Thank You Friends" は荒削りな感触が悪くないし、"Take Care" はカントリー色が直接的に出ているようで、これもいい。
一方で、ジョン・フライがミックスした方は音質ばっちり、生々しいですね。ドラマーのジョディ・スティーヴンスの "For You" をアレックス・チルトンが、また "Till The End Of The Day" をガールフレンドのリザが歌っていますが、これらはいまいちかな。個人的には "Lovely Day" が軽やかでカラフルな感触のものになっていて、気に入りました。

ディスク3はこのレコーディング・セッションの最終ヴァージョン。「Third」もしくは「Sister Lovers」としてリイシューされる度に曲順や収録曲が違っていたのだけれど、今回は制作当時のテスト・プレスの並びを採用。
こちらも決定版といえそうな音の良さであります。ただ、ラフ・ミックスを聴いた後だと、ややオーバー・プロデュース気味の印象も受けてしまうかな。



付属のブックレットは非常にインフォーマティヴなもので、レコーディングのはじまりから、制作終了後数年経ってリリースされるまでのいきさつを当事者のコメントを散りばめながら再構成してあります。
これを読んでいくと、「Third」はそもそもビッグ・スターのアルバムと意図して制作されていたのではないことがはっきりします。アレックス・チルトンは仕上げの段階ではもう手を引いてしまっていたようであるし、リリースの際に商業的な判断でその名が使われた、というのが有力そうで、掲載されているクリス・ベルの1975年のインタビューからの抜粋でも、そのことについて触れてあります。
その他のエピソードとしては、"Femme Fetale" では困惑するスティーヴ・クロッパーを、ジム・ディキンソンが説得してギターを弾かせたとか、いかにもという感じ。
また、出来上がったものをディキンソンとジョン・フライがワーナーのレニー・ワロンカーやアトランティックのジェリー・ウェクスラーのところに持っていったところ、ぼろくその評価を受けたとのこと。つらかったが、そう意外な反応ではなかったとも。


タイトルは「Complete」ですが、作品としては未完成で、むしろ制作過程に内包されていた広がりを示したセットという感じでしょうか。
今までリリースされていたヴァージョンは必ずしも最良の部分ではなかったのではないか、という思いが聴くほどに強くなります。

2016-11-20

アガサ・クリスティー「親指のうずき」


トミー&タペンスものの第三長編。発表は1968年というから、前作になる『NかMか』から27年経過しており、作中の二人もそれだけの年齢を重ねているようです。
なお、クリスティ自身の前書きによれば、ファンからの要望に応えてこのカップルを復活させたようであります。

トミーが出張している間、ある老嬢の行方を突き止めるべくタペンスが奮闘。これが物語の前半を主に占めるのですが、加齢とともに行動力が衰えた分、おしゃべりが増量され、正直、読んでいてかなりだれます。もちろん、その中には手掛かりも潜んでいるわけなのですが、膨大な噂話として語られている内容が事実かどうかはっきりしないままである上に、本筋とは関係なさそうなやりとりが多いのです。純粋にミステリを期待して読むときついかも。
で、そうこうするうちにタペンスに危機が迫って、というクリスティのスリラーではお馴染みの展開に。

もはや何の新味もないお話だけど、トミーとタペンスが元気ならそれでいいかあ、なんて気持ちで読み進めていくと、終盤にはちょっとした驚きが。唐突、といったほうが適切かな。そして、そこからの迫力はちょっとしたものであり、同時に時代への目配せも感じられます。

プロット全体がご都合主義によって構成されているようだし、切れの悪いミスリードなどほめられたものではありませんが、なんだかんだいって楽しめました。八十前の年齢にして、なおも読者の裏をかいてくれる、それだけでもう十分嬉しいです。

2016-11-13

R・オースティン・フリーマン「オシリスの眼」


資産家でエジプト学者のベリンガムが奇妙な状況の元、行方不明となった。そして二年後、彼の財産をめぐる問題が立ち上がる。その生死が不明な上、遺言状の条項が常軌を逸したものであるためだ。そんな中、ばらばらにされた白骨が関係者たちの地所を含む各地で発見される。はたして、それはベリンガムの遺骸なのか。


ソーンダイク博士ものの長編、その二作目。1911年発表ということで、100年以上前の作品であります。
文章は平易なものであり、それ自体は古さを感じさせるものではありません。人間消失の謎に身元不明の白骨、法廷劇などもあってミステリとしてのフックは十分。しかし、展開は実にゆったりしたものであって、いいタイミングで新しい手掛かりが登場、なんて風にはいきません。
また、雰囲気を盛り上げるけれんも乏しいですね。題名になっている「オシリスの眼」というのはエジプトにまつわるシンボルで、今でも見かけることがあるもの。失踪したベリンガムはその意匠を施した指輪をはめており、胸にはタトゥーも入れていた、ということになっていまして、そこから怪奇的な因縁とか呪いやら、いくらでもこじつけられそうなものなんだけど。作者の誠実さがいい加減なことを書くのを許さなかった、ということかしら。
とにかく実直に書かれた作品なのですが、ロマンス要素が多すぎるかな。このせいでちょっと冗長になっているかも。時代的な限界なのでしょうか。

メイントリックは今となっては珍しいものではないけれど、非常に大胆な使い方がされており、発表当時に読んだひとたちはさぞや驚いただろう。
一方、ロジックの方はその構成こそ手堅いものの、現代の水準から見るとディテイルに欠けるところがあります。新聞記事から導かれた前提となる推理や、失踪状況の改めなどは大雑把に感じてしまいました。まあ、これをきっちりやると解決編がすごく長大になるのかも。
しかし、白骨はなぜ傷が付かないように注意を払って分断されたのか? というホワイには現代のミステリに通底するような魅力があって、これはとても好みです。
またプロット面でも、遺言状の条件をめぐる最終的ななりゆきが、皮肉が利いていて良いですね。

ちょっとケチをつけたりしましたが、楽しんで読めましたよ。
シャーロック・ホームズのライヴァルというより、ずっと近代的なミステリだと思いました。

2016-11-06

フレドリック・ブラウン「さあ、気ちがいになりなさい」


ブラウンの短編集を読むのも随分と久しぶりだ。
若い頃はその奇抜な着想や切れ味鋭いオチに感心したものだ。で、今見るとさすがにアイディアが古びてしまっている作品もある。しかし、それでも最後まで面白く読めるのは、小説として良くできているということなのだろう。
また、結末にしても意外さもさることながら、同時に何かしら形容し難い、消化されてしまうことを拒否するような奇妙な後味を残すものが多い。しかも、それが頭でっかちな表現でなく、ごく平易な言葉によって語られているのが凄いな、と思う。


どの作品も良かったのだけれど、特に印象に残ったものを。

「ぶっそうなやつら」 料理の仕方を変えれば喜劇になりそうなシチュエイションを扱いながらも、サスペンスフルに仕上げられた一編。切れのある結末がお見事。

「おそるべき坊や」 表面とその裏側で同時に別な物語を進行させているのだけれど、その感触は実に軽やか。ファンタジーなのだがミステリ的な根拠を備えているのが絶妙に効いている。

「電獣ヴァヴェリ」 外宇宙からの侵略を描きながら、撃退するでも破滅するわけでもなく、こんなかたちに落ち着く作品が他にあるだろうか? 文明批判に流れやすそうな展開なのだが、落としどころが実にいい感じの物語であります。

「ユーディの原理」 この作品に限ったことではないのだけれど、作品の終盤あたりで、それまでなんとなく想定していた物語世界の範囲からはみ出していくような驚きがある。それをやり過ぎてしまうとヘタクソなミステリになるのだが、ブラウンはさじ加減が巧いな。

「町を求む」 このわずかなサイズにこの内容、というのが凄い。そして見事な語り口。

「沈黙と叫び」 哲学的な問答から始まり、読者を予想もしないところへ連れて行く。この結末もアイディアのみの作家なら書き得ないだろう。卓抜な着想と小説家としての技量を併せ持つことでの達成。圧巻ですな。


やっぱりブラウンはいいな。うちにある古いのを掘り起こして読み返してみようかしら。

2016-11-03

Teddy Randazzo / The Girl From U.N.C.L.E.


「The Girl From U.N.C.L.E.」というのは米国の人気TVドラマ「The Man From U.N.C.L.E.」のスピン・オフで、1967~8年に放映されていたそう。音楽はデイヴ・グルーシンが手掛けました。また、番組のオープニングではジェリー・ゴールドスミスによる「The Man From U.N.C.L.E.」のテーマを、新たにグルーシンがアレンジしたものが使われていました。
しかし、両ドラマとも'60年代当時にサウンドトラック盤は発売されなかったのだな。そこで、番組の人気に目を付けたのか、劇中で使われた曲を別なひとが新たに録音したレコードが制作されました。ヒューゴ・モンテネグロは「The Man From U.N.C.L.E.」からの音楽で2枚のアルバムを出しています(さらにモンテネグロは後に映画「The Good, the Bad and the Ugly」のメインテーマをカヴァーして、大ヒットさせています。商売としても馬鹿にならないたぐいのものであったのだな)。

んで、「The Girl From U.N.C.L.E.」なんですが、こちらはテディ・ランダーゾがアレンジ/指揮をしたアルバムです。しかし、このアルバムをVarèse Sarabandeが再発した際にジャケットからランダーゾの名前を消して、代わりにグルーシンとゴールドスミスの名前を入れてしまったのだからややこしい。TV番組のサウンドトラックのような誤解を招くし、第一、実際にレコードを制作した人物の名前がない、というのもおかしな話であります。

まあ、それはともかく。このアルバムはテディ・ランダーゾ版ビッグ・バンド・ジャズという趣で、都会的かつドラマティックなアレンジが楽しめるもの。収録曲にはランダーゾのオリジナルも2曲まぎれこませてあります。
特に、要所で使われている女声スキャットが効果的ですね。中でも、タイトルになっている " The Girl From U.N.C.L.E." は軽やかな響きのボサノヴァで、これが一番の聴き物。

あと、このアルバムにも " The Man From U.N.C.L.E." が入っていて。迫力たっぷりの演奏の中で木琴をスタックス・ソウル風のリズムで使うなど、考えられています。しかし、スパイ・アクション的な軽快さやスピード感、もっとはっきりいえば元々のものにあった美点がまるで失われてしまっているようではあるかな。ちょっとやり過ぎた、というね。